アルツハイマー病の遺伝要因が発症を抑えるメカニズムを解明
-タンパク質凝集体の神経病理を抑える観点での創薬へ-
慶應義塾大学大学院医学研究科博士課程(当時)の村上玲、同大学再生医療リサーチセンター長の岡野栄之教授、同大学殿町先端研究教育連携スクエアの渡部博貴特任講師らを中心とする研究グループは、ヒト iPS 細胞(注 1)由来のアストロサイト(注 2)を用いて、アルツハイマー病(注 3)に関わる遺伝子が発症や進行を抑える作用メカニズムを解明しました。
アルツハイマー病に関わる遺伝子のひとつであるアポリポタンパク質 E(APOE)遺伝子(注 4)のクライストチャーチ型は、アルツハイマー病の発症や進行を抑える可能性があるとして、2019 年に報告されました。しかし APOE 遺伝子のクライストチャーチ型が、どのようにして疾患の発症や進行を抑えるかは明らかになっていませんでした。
本研究グループは、ゲノム編集技術(注 5)を用いて APOE 遺伝子クライストチャーチ型を持つ iPS 細胞由来アストロサイトを作り、家族性アルツハイマー病患者由来の神経細胞への効果を調べたところ、アルツハイマー病で特徴的なタウタンパク質(注 6)の神経細胞間の拡がりが APOE遺伝子クライストチャーチ型を持つアストロサイトによって抑えられることを発見しました。
今回の研究成果はAPOE遺伝子クライストチャーチ型を持つアストロサイトがアルツハイマー病への抑制効果を証明することに成功したものであり、病態脳内でみられるタウタンパク質から成る神経病理の拡がりを抑えるという新たな視点を基にした創薬開発につながる可能性をもっています。
研究の背景と概要
高齢化社会の日本では、高齢者の 4 人に 1 人が認知症またはその予備軍とされています。その中で最も患者数の多いアルツハイマー病は、現在も根本的に治す治療薬・治療方法の開発には至っておらず、一刻も早い治療法の開発が待たれます。
近年、家族性アルツハイマー病の家系において、原因遺伝子変異を持っている保因者(注7)であるにも関わらず、70 歳代まで発症しない女性の症例が報告されました。この家系の原因遺伝子変異を持つ保因者は 40 歳代での発症が一般的であることから、この女性では発症を抑制する他の遺伝性因子を持つ可能性が示唆されました。ゲノム解析の結果、この女性保因者が APOE 遺伝子の稀な遺伝子多型(注 8)であるクライストチャーチ型を持つことがわかりました(図 1)。しかし、この APOE 遺伝子クライストチャーチ型のアルツハイマー病に対する作用メカニズムは明らかではありませんでした。
図1 ApoE3 型タンパク質構造と遺伝子多
型によるアミノ酸置換
中立型 ApoE3 のタンパク質構造を AlphaFold2 で描写し、遺伝子多型に基づく ApoE2、ApoE4、クライストチャーチ型によるそれぞれのアミノ酸置換の部位を示しました。
各遺伝子多型は、アルツハイマー病発症に対して正(赤枠)あるいは負(青枠)に作用します。
研究の成果と意義・今後の展開
本研究では、APOE 遺伝子の APOE3 型をもつ健常人由来 iPS 細胞から、ゲノム編集技術を用いてクライストチャーチ型をもつ iPS 細胞を作りました。さらにヒト iPS 細胞からアストロサイトへの分化誘導法を用いることで、それぞれの APOE 型をもつヒトアストロサイトを作りました。APOE3 型アストロサイトまたはクライストチャーチ型アストロサイトを、遺伝性アルツハイマー病患者由来の神経細胞と共に培養しました。アルツハイマー病で特徴的なタウタンパク質の神経細胞間の移動を鋭敏に検出可能なレポーターを用いることで(図 2)、神経細胞間のタウタンパク質の移動頻度は、神経細胞のみの培養で最も高く、APOE3 型アストロサイトを共に培養した神経細胞でやや低く、クライストチャーチ型アストロサイトを共に培養した神経細胞で最も低いことが明らかになりました(図 3)。
図2 タウタンパク質の拡がりを検出するレポーターの開発
タウタンパク質の拡がりを検出するレポーターが導入された神経細胞では核に赤い色素(dTomato)と細胞全体にタグ(FLAG)のついたタウタンパク質が発現します。タウタンパク質が隣接する神経細胞に移動すると、移動先の神経細胞ではタグ(タウタンパク質)のみ検出されます。レポーターが導入された神経細胞のうち、タグ(タウタンパク質)のみ発現する神経細胞の比率から、タウタンパク質がどのくらい拡がるのか鋭敏に検出できます。
図3 神経細胞間のタウタンパク質の拡がりに対するそれぞれの APOE 型アストロサイトの
効果
免疫染色によって家族制アルツハイマー病患者由来神経細胞間でのタウタンパク質の拡がりを観察しました。本研究ではタウタンパク質の分泌を促す脱分極刺激(KCl)を行うことで、タウタンパク質の神経細胞間移動を促進しています。タウタンパク質の移動は単独で培養した神経細胞に KCl 処理した場合で最も高く、次に APOE3 型アストロサイト(E3/3)を共に培養した神経細胞に KCl 処理した場合でもみられます。しかし、クライストチャーチ型アストロサイト(E3Ch/3Ch)を共に培養した神経細胞に KCl 処理した場合ではタウタンパク質の神経細胞間移動は抑えられていることが明らかとなりました。
以上の結果から、クライストチャーチ型アストロサイトには神経細胞間でのタウタンパク質の拡がりを抑制する機能があることが明らかになりました。本研究で得られた成果は、アルツハイマー病患者の神経細胞間での異常型タウタンパク質の拡がりに視点を置く新たな創薬の可能性を拓くものと考えられます。
用語解説
(注 1)iPS 細胞:
血球細胞などの体細胞に特定の転写因子を導入することによって、あらゆる組織や細胞への分化能と自己増殖能を獲得した細胞です。
(注 2)アストロサイト:
中枢神経系に存在する非神経細胞の一種で、主に神経細胞を支持し、栄養供給や物質輸送を担う細胞です。
(注 3)アルツハイマー病:
老人斑、神経原線維変化、神経細胞死を病理学的特徴とする初老期発症の進行性神経変性疾患で、日本での患者数は約 300 万人以上と推定されています。
(注 4)アポリポタンパク質 E(APOE)遺伝子:
染色体 19 番長腕に位置するアポリポタンパク E を産生する遺伝子です。2 つのアミノ酸置換を伴う遺伝子型(APOE2、APOE3、APOE4)が存在します。APOE3 遺伝子型は最も頻度が高く、中立な遺伝
子型です。APOE3 遺伝子型に対して、APOE4 遺伝子型はアルツハイマー病の発症リスクを高め、APOE2 遺伝子型は防御的に作用します。クライストチャーチ型は非常に稀な型であって近年、アルツハイマー病との関連が知られました。
(注 5)ゲノム編集技術:部位特異的ヌクレアーゼを用いて、細胞内の任意のゲノム配列を改変させる手法です。
(注 6)タウタンパク質:
アルツハイマー病の病理学的特徴である神経原線維変化の責任分子のタンパク質です。タウタンパク質が異常な構造体となり神経細胞間を拡がることが発症の一因であると考えられています。
(注 7)保因者:
ある疾患に係る遺伝性因子を有する個人を指します。遺伝性因子の疾患への浸透度に応じて発症するかどうか決定されますが、家族性アルツハイマー病の原因遺伝子変異の保因者ではほぼ 100 パーセントの確率で発症することが知られています。
(注 8)稀な遺伝子多型:
集団内に 1 パーセント未満の頻度で存在する遺伝子内の塩基置換などを指します。
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