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「新しく生まれた神経の回路への組み込みがトラウマ記憶の減弱に寄与する」-No.354




新しく生まれた神経の回路への組み込みがトラウマ記憶の減弱に寄与する

心的外傷後ストレス障害 (PTSD) の新たな治療法開発に期待




発表のポイント


  1. 戦争や災害など、忘れられないトラウマ記憶に苦しむ PTSD 患者が世界中に多く存在する

  2. 海馬の神経新生 (※1) の増加および神経回路への組み込みがトラウマ記憶の忘却を促し、PTSD に類似した症状を減弱させることを明らかにした

  3. 神経新生をターゲットとした新たな PTSD 治療法の開発に期待




概要


 PTSD は、トラウマとなるような出来事を経験または目撃した人に発症する可能性のある精神疾患です。世界保健機関(WHO)によると、世界の約 3.6%の人が過去 1 年間に PTSD を経験していると言われるほど、身近な精神疾患です。現状の PTSD の治療には、精神療法や抗うつ剤を使用した薬物療法が用いられています。しかし、治療の効果が現れない患者も存在するため、新たな治療法の確立が望まれています。University of Toronto / Hospital for Sick Children の Paul W. Frankland 教授と、九州大学大学院薬学研究院 / Hospital for Sick Children の藤川理沙子助教らの研究グループは、神経新生による海馬神経回路のリモデリング (※2) が、トラウマ記憶の忘却を促し PTSD に類似した症状を減弱させることを明らかにしました。まず、マウスで PTSD をモデル化するため、二重トラウマ PTSD パラダイムを用いました。マウスに二度の強いショック (二重トラウマ) を異なる状況下で与えると、恐怖記憶消去の障害・不安の増大・安全な環境でも恐怖を感じてしまう汎化 (※3) など、PTSD 患者で観察される症状に似た一連の行動が出現しました。ショックを与えた後、ランニングホイールを用いた自発運動により神経新生を増加させると、トラウマ記憶と PTSD 症状が減弱しました。次に、神経新生の効果であるか調べるため、光遺伝学的手法 (※4) を用いて新生神経だけにアプローチしました。新生神経の突起を伸長させ、神経回路への組み込みを促すことで、トラウマ記憶と PTSD 症状が減弱しました。今回の成果により、海馬神経新生がトラウマ記憶と PTSD 症状を減弱させる新たなメカニズムが明らかになりました。


 世界では戦争が起こり、日本でも地震などの自然災害が続いています。PTSD に苦しむ患者は後を絶ちません。運動や薬物など、神経新生を標的とした療法が新たな PTSD 治療として活用されることで、より多くの患者の治療に役立つことが期待されます。


神経新生とトラウマ記憶

強いショックを 2 回与えると、マウスは PTSD に似た症状を示しました。運動による海馬神経新生の増加や、遺伝学的手法による新生神経の突起伸長により、トラウマ記憶の忘却が促され、PTSD 症状が減弱しました。




研究の背景と経緯


 PTSD は、戦争や災害など生死に関わる経験をした後に、そのトラウマ体験を忘れることができず、自分の意志とは無関係に思い出して恐怖を感じる疾患です。安全な場所にいても被害が続いているように感じ、不安や緊張状態が続きます。WHO による世界保険調査の日本データによれば、日本で一生のあいだに生死に関わるトラウマ体験をする確率は約 60%といわれています。PTSD は誰にでも起こり得る、身近な精神疾患です。既存の治療法で効果の得られない患者も存在するため、新たな治療法の確立が望まれています。


 本研究では、海馬の神経新生に着目しました。海馬は、記憶に重要な働きをする脳部位です。ヒトを含む哺乳類の海馬の歯状回では、大人になっても日々新たな神経細胞が産出されています。この現象を神経新生といいます。過去の我々のグループの研究で、学習後に神経新生を増加させると海馬依存記憶の忘却が促されることを報告しました。しかし、トラウマ記憶を含む PTSD 症状への影響は不明であったため、今回 PTSD モデルマウスを用いた研究を実施しました。




研究の内容と成果


 マウスで PTSD をモデル化するために、二重トラウマ PTSD パラダイムを用いました。トラウマ記憶の負荷と記憶確認実験は、白箱と黒箱が連結した Box を使用しています。マウスに黒箱でショックを与えた後、ショックの記憶があると黒箱を回避して侵入しなくなります。マウスを白箱に入れてから黒箱に侵入するまでの時間を用いて記憶を評価しました。成体マウスに二度の強いショックを異なる状況下で与えると、恐怖記憶消去の障害・不安の増大・汎化など、PTSD 患者で観察される症状に似た一連の行動が出現しました。次に、海馬の神経新生を増加させることが報告されている『自発運動』を促すため、マウスのホームケージにランニングホイールを設置しました。ショックを与えた後、4 週間の自発運動によりトラウマ記憶が減弱し、上記の PTSD に類似した症状も減弱しました。

しかし、自発運動には神経新生増加以外の生理的な作用もあります。そこで、PTSD 症状の減弱が神経新生による効果であるか調べるため、遺伝学的手法を用いて新生神経だけにアプローチしました。1 つめの方法では、光遺伝学的手法 (※4) を用いました。光遺伝学とは、光によって活性化されるタンパク分子を特定の細胞に発現させ、光によって細胞活動を操作する技術です。今回、神経前駆細胞 (ネスチン陽性細胞※5) 特異的に光活性化タンパク質を発現させ、歯状回を光刺激しました。これにより、神経前駆細胞とそこから分化した新生神経の活動を活性化させることができます。2 つ目の方法では、薬剤依存的に遺伝子操作が可能な手法 (※6) を用いています。神経の突起伸長を抑制するタンパク質 (セマフォリン 5A) をネスチン陽性細胞特異的に欠損させました。この 2 つの方法により、神経の数は変わらないまま、新生神経の突起が伸長しました。ショックを与えた後の上記の遺伝学的操作により、トラウマ記憶と PTSD 症状が減弱しました。神経新生の回路への組み込みが促進され、海馬神経回路のリモデリングが生じた結果と考えられます。

次に、記憶が関わる他疾患でも神経新生の操作が有効かどうか調べました。薬物依存症は、薬物を摂取した場所状況の記憶から薬物報酬記憶が思い出されて再摂取に繋がるとされています。マウス実験では、壁や床が異なる 2 つの部屋を用意し、片方の部屋で生理食塩水を、もう一方で乱用薬物 (コカイン) を与えます。その後、両方の部屋にアクセスできるようにすると、マウスはコカインを与えられた部屋を好み長く滞在するようになります。この実験方法を用い、コカインの条件付け後に自発運動や遺伝学的手法を用いて神経新生を操作すると、コカインを与えられた部屋を好む嗜好性が減弱しました。神経新生の操作が、トラウマ記憶だけでなく、薬物摂取の場所状況記憶の忘却にも応用できることが示されました。





今後の展開


 新しく生まれた神経は、数週間かけて海馬の神経回路に組み込まれます。この神経回路のリモデリングにより、既存の記憶が上書きされてアクセスしにくくなる可能性が考えられます。


今回の研究結果から、海馬の成体神経新生が PTSD や薬物依存など記憶の関わる精神疾患の治療ターゲットとなることが示されました。神経新生を増加させることのできる運動や薬剤を、PTSD や薬物依存症の治療に応用できる可能性があります。




用語解説


(※1) 神経新生

神経細胞のもととなる神経幹細胞が、神経細胞へと分化することを神経新生といいます。哺乳類の神経新生は胎生期から幼年期で起こる現象と以前は考えられてきましたが、近年では大人の脳でも神経新生が継続して起きていることが分かってきました。本研究では、この『成体神経新生』に着目しています。

 

(※2) 海馬神経回路のリモデリング

海馬では、嗅内皮質のニューロンから始まり、歯状回、CA3 領域、CA1 領域を経て再び嗅内皮質へ戻る神経回路が形成されています。海馬の歯状回で新しく産まれた神経は、数週間かけて海馬神経回路に組み込まれ、嗅内皮質から入力接続を受け取り、CA3 の神経細胞と出力接続をします。これにより、海馬神経回路のリモデリングが起きます。

 

(※3) 汎化

トラウマ経験とは異なる状況、もしくは類似した状況においても、トラウマに関連する恐怖反応が生じることを汎化といいます。本研究では、トラウマ経験をした場所と壁や床が異なる部屋を用いて汎化の症状を評価しました。

 

(※4) 光遺伝学的手法

光で活性化されるイオンチャネル等のタンパク質を神経細胞に発現させ、青色もしくは緑色光を照射することで、特定の神経細胞の活動を活性化したり抑制したりできる技術のことです。本研究では、ネスチン陽性細胞に青色光照射によって活性化するチャネルロドプシン 2 を発現させ、歯状回を青色光照射することで神経細胞を活動させました。

 

(※5) 神経前駆細胞 (ネスチン陽性細胞)

既に神経細胞としての性質を一部持っているが、完全に成熟していない状態にある細胞のことです。ネスチンは、神経前駆細胞や幹細胞に発現する中間径フィラメントタンパク質です。

 

(※6) 薬剤依存的に遺伝子操作が可能な手法

本研究では、Cre/loxP システムを用いて、特定の神経からセマフォリン 5A を除去しています。loxP配列と呼ばれる DNA 配列に対し DNA 組換え酵素 Cre が働くことにより生じる部位特異的組換え反応を利用した遺伝子組換え実験系です。

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