理性と感情の葛藤メカニズムを明らかに
– 悲観と共に変化するトップダウン信号を発見 –
概要
京都大学高等研究院ヒト生物学高等研究拠点(WPI-ASHBi)雨森智子 研究員(日本学術振興会特別研究員)と 雨森賢一 特定拠点准教授らの研究グループは、「理性」を司る前頭前皮質と「感情」を司る辺縁皮質・線条体との相互作用に着目し、2つの領野間にどのような信号が送られ、感情の変化に伴ってその信号がどのように変化するのかを調べました。
前頭前皮質はヒトを含む霊長類で特に発達した領野で、さまざまな知的な認知機能を司る「理性」の中心を担うと考えられています。前頭前皮質の損傷により感情を抑えることが難しくなることから、古くから前頭前皮質は、感情制御(emotion regulation)の機能を担うと考えられてきました。さらに、うつ病などの精神疾患では、この感情制御が適切に機能しておらず、悲観的な状態が持続し日常生活へ影響を及ぼすことが知られています。しかしながら、その感情制御のメカニズムに関してはほとんど明らかとなっていませんでした。
本研究では、PFC と辺縁皮質・線条体のそれぞれの領野から神経活動を同時に記録することのできる新たな多点電極記録法を開発し、さらに、sgACC の微小電気刺激によってうつ病様の悲観状態を人為的に誘導する手法を確立しました。前頭前皮質と辺縁皮質・線条体の神経活動を同時に記録し、領野間の信号の流れを調べ、人為的に誘導されたうつ状態では、前頭前皮質の信号の影響が低下していることを明らかにしました。
この研究によって、うつ病などの病的な悲観状態を制御する、前頭前皮質のトップダウン信号が明らかになり、ヒトに特徴的な「理性」と「感情」の葛藤する仕組みの一端が解明されました。
背景
前頭前皮質(prefrontal cortex, PFC)は、進化の過程でヒトにおいて、類人猿と比較しても特別に拡大した領野です。この PFC は、行動の計画的な実行や短期記憶といった認知機能の中心と考えられています。それだけでなく、PFC は、損傷により感情の制御が難しくなることが古くから知られていて、喜怒哀楽の感情を制御して「理性」を保つという働きをしていると考えられています。しかしながら、この「理性」を司る PFC が、どのようなメカニズムで「感情」を制御するか、という葛藤のメカニズムはまだわかっていませんでした。
この「感情制御」(emotion regulation)は防御メカニズムの一つで、「感情」を抑えて「理性」に基づいて行動決定をするための脳の重要な機能と考えられています。うつ病などの精神疾患では、病的に悲観状態が続くなど、この感情制御が適切に機能していない状態に陥っていると考えられています。
そこで、研究グループは、ヒトと同様発達した PFC をもつマカクザルを用いて、「理性」を司る PFC と「感情」を司る辺縁皮質・線条体との相互作用に着目し、2つの離れた領野間にどのような信号が送られて「感情」が制御されているのかを調べました。
研究グループは、辺縁皮質の中でも、うつ病と特に関係の深い前帯状皮質膝下部(subgenualanterior cingulate cortex, sgACC)の微小電気刺激(electrical microstimulation)を行い、マカクザルの価値判断を悲観的に誘導し、うつ病のマカクザルモデルを作り出すことに成功しました。同時に、前頭前皮質と辺縁皮質・線条体から局所電場電位(local field potential, LFP)を記録し、「理性」と「感情」に関わる領野間の信号の流れを調べました。
研究手法・成果
「理性」を司る PFC と、「感情」を司る辺縁皮質・線条体は離れた位置にあるため、これまで詳細な解析を行うことは技術的に困難であり、両領野間の生理学的な相互作用の解析は進んでいませんでした。そこで、研究グループは新たに多点電極記録法を開発し、マカクザルを用いて、PFC から辺縁系に至る様々な領野の LFPのベータ振動(beta oscillation)を同時に記録し、領野間を連絡する信号を調べました。その結果、意思決定の価値判断に関わる情報が、LFP のベータ振動の強度で表されていることが分かりました。ベータ振動は、大脳皮質・大脳基底核において、2つの離れた領野間の信号の同期・通信に関わる、トップダウン型の制御信号を担うものと考えられています。
そこで研究グループは、PFC と辺縁皮質・線条体の間のベータ振動の同期に着目し、PFC から辺縁皮質・線条体する信号の流れ(方向性)をグレンジャー因果性解析によって調べ、「理性」を司る PFC から、「感情」を司る辺縁皮質・線条体に対して、ベータ振動のトップダウンの情報の流れがあることを明らかにしました。
この PFC からの信号が、実際に「感情」の制御に関わりがあることを示すために、研究グループは、うつ病に関わりが深いと考えられている sgACC を微小電気刺激法により刺激し、電気刺激前後のマカクザルの意思決定と価値判断の変化を定量的に解析しました。sgACC への刺激により悲観的な意思決定の増加が認められ、マカクザルにうつ病様の症状が認められました。この、うつ病マカクザルモデルにおいて、PFC と辺縁皮質・線条体のベータ振動を記録したところ、PFC からのトップダウン信号が有意に減弱していることが分かりました。このことから、sgACC の微小電極刺激によって誘導される、うつ病様の悲観状態では、「理性」に関わる PFC の信号の影響が弱く、理性的でない感情的な意思決定の原因になっていると考えられます。この研究によって、うつ病などの病的な悲観状態を制御する、PFC のトップダウン信号が明らかになり、また、人為的な誘導による「感情」の変化に伴い、そのトップダウン信号が変化することを発見し、ヒトに特徴的な「理性」と「感情」の葛藤する仕組みの一端が解明されました。
まとめ
PFC は、進化の過程でヒトにおいて特に拡大した領野です。「理性」と「感情」は、PFC と辺縁皮質・線条体によってそれぞれ担われていると考えられていますが、その葛藤は離れた領野間の相互作用によって実現されており、大きな脳を持つ霊長類では、こうした離れた領野間の相互作用を生理学的に明らかにすることは困難でした。
本研究では、PFC と辺縁皮質・線条体のそれぞれの領野から神経活動を同時に記録することのできる新たな多点電極記録法を開発し、さらに、sgACC の微小電気刺激によってうつ病様の悲観状態を人為的に誘導する手法を確立しました。
これにより「感情」の変化とともに、脳の大規模ネットワークの信号がどのように変化するのかを明らかにすることができ、「理性」を司る PFC が「感情」を司る辺縁皮質・線条体を制御する葛藤のメカニズムの一端が解明されました。
波及効果と今後の予定
ヒトを含む霊長類は、げっ歯類と比較して脳のサイズが非常に大きく、階層的な構造を持つ離れた領野間の相互作用が情報処理に重要な役割を果たしていると考えられています。
本研究は、霊長類における脳の大規模ネットワーク(large-scale network)における情報処理メカニズムの基盤となる神経活動を明らかにしました。
ヒトの MRI 研究が進み、霊長類では、この脳の大規模ネットワークによって、価値判断・意思決定に関わる高度な情報処理が行われていることが分かってきました。特に、マカクザルの PFC、辺縁皮質・線条体では神経活動の同期現象が、領野間の信号伝達に重要な役割を果たしているのではないか、と考えられています。
本研究では、微小電気刺激法と多点電極記録法を組み合わせることで、うつ病の病態に関わる領野間相互作用の変化を明らかにしました。こうした手法を元にして、今後は、社会性・好奇心など、さまざまなコンテキストが「感情」に及ぼす影響を調べていきたいと思っています。
同時に、特に深部の脳領野を対象とした神経刺激法の発展は、脳の局所回路の機能同定といった科学的な目的での使用だけでなく、薬の効かないうつ病患者を対象とした深部脳刺激術などによって治療応用が始まっています。サイエンスの分野では一般的に使用されている神経活動の変容法ですが、ヒトへと応用される場合には、慎重な倫理的議論が必要になると考えます。
研究者のコメント
「ヒトの高次の脳機能の基盤となる大規模ネットワークの情報処理メカニズムの解明には、ヒトと相同な脳構造を持つマカクザルの実験が必須です。本研究は、多数の領野から LFP を取得し、神経操作によってうつ病状態を誘導するなど、様々なテクニックを組み合わせ、理性と感情の葛藤に関わる面白い現象を見つけることができました。サルの脳研究は時間がかかりますが、粘り強く研究を進め、こころのメカニズムに関わる大事な発見を目指したいと思っています。」
用語解説
前頭前皮質(prefrontal cortex, PFC)
ヒトやマカクザルの脳にある前頭葉の前側の領域で、前運動野の前に位置しています。
この脳領域は認知的に計画された行動の実行や、理性的で社会的行動に関わっているとされています。前頭前皮質の機能を説明する例として、古典的にはフィニアス・ゲージの症例が挙げられます。事故により、前頭葉の損傷を受けたゲージは、記憶、言語、運動能力を保ったまま、気分屋で、短気な性格に変化したと報告されています。また、さまざまな感情を意図的に抑制するときに、PFC の様々な領野が活性化することが、機能 MRI の研究などで報告されています。
感情制御(emotion regulation)
状況や社会的な環境に応じて、感情を適切に制御することを感情制御と言います。感情は社会的な状況に関わらず辺縁系において惹起され、行動に影響を及ぼすことが分かっており、とくに、この制御のメカニズムは、うつ病からの防御に重要なシステムの一つとも考えられています。認知的で理性的な行動に関わる前頭前皮質によって制御されるのではないか、と考えられています。
前帯状皮質膝下部(subgenual anterior cingulate cortex, sgACC)
感情・気分や覚醒度の制御に関わることが知られています。ヒトのうつ病患者において過活動がみられることから、うつ病の深部脳刺激術の治療ターゲットの一つとされています。
うつ病の rTMS を用いた刺激治療は、PFC をターゲットとしており、sgACC とPFC は、相互抑制の機能的結合をもっていると示唆されています。
微小電気刺激法(electrical microstimulation)
ヒトや動物の脳・神経活動がどのような機能に因果的に関わるかを調べるために、神経活動に局所的な変化を生じさせる電気刺激法が用いられてきました。この手法により、古典的にはペンフィールドらにより、運動野と対になる体性感覚野がこの手法によって発見されました。一方、前頭前皮質などの認知領野も、微小電気刺激法では機能の同定が難しい領野でした。最近では、刺激による神経変容を用いた治療法や神経系の適切な機能を可能にするデバイス(神経プロテーゼ)への応用がなされています。
局所電場電位(local field potential, LFP)
局所電場電位(LFP)は、脳の細胞外空間で記録される電気ポテンシャルであり、通常、マイクロ電極から記録することにより、比較的局所化されていて、数百マイクロのレベルの空間解像度を持ち、ニューロンの集団の活動をサンプリングしていると考えられています。
ベータ振動(beta oscillation)
LFP のベータ振動は、不安や集中状態と関連していると考えられています。また、運動の変化が起こる前および運動中に抑制されることから、神経のバースト活動との逆相関を示す信号であることが示唆されています。近年、サルの階層的な認知領野・視覚感覚領野の相互作用において、ベータ振動がトップダウンの信号に相当することが示唆されています。本研究では、PFC と辺縁皮質・線条体において、ベータ振動が認知領野からのトップダウンの信号に当たることが明らかになりました。
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