肺がんの悪性化に伴う分子的変遷の解明
―肺がんはどうやって悪性化していくのか?―
発表のポイント
1.肺がんの中で一番多いタイプである肺腺がんは、上皮内がんから多段階的に悪性の浸潤が
んに進行していきます。
2.長鎖 DNA シークエンスや単一細胞空間オミクス解析など最新のゲノム技術を用いて、各
段階の肺がんにおける遺伝子の変化を調べることで、多段階に悪性化するときの遺伝子の
変化やがん細胞と周囲の免疫細胞の相互作用をとらえることができました。
3.今回の研究の成果は、肺がんの早期発見や治療、予防に役立つと期待されます。
概要
東京大学大学院新領域創成科学研究科の鈴木絢子准教授、鈴木穣教授、国立がん研究センター研究所ゲノム生物学研究分野の河野隆志分野長、筑波大学医学医療系診断病理学の野口雅之教授(研究当時)らからなる研究チームは、発生早期の肺腫瘍についての詳細なゲノム解析を行いました。
長鎖 DNA シークエンス(注 1)や空間オミクス解析(注 2)などの最新の解析技術を用いたゲノム解析を行い、ドライバーがん遺伝子(注 3)変異と呼ばれる重要な遺伝子の変化が、最も初期の上皮内がんの段階において既に発生していることを見出しました。
そして、ゲノム DNA 全体のメチル化(注 4)の低下やコピー数変化(注 5)がそれに続いて積み重なることで、上皮内がんから悪性度を増した浸潤がん(注 6)に進展していくというメカニズムが明らかになりました。
また、やや進展した上皮内がんの段階で、腫瘍細胞は初めて免疫細胞からの本格的な攻撃にさらされることが分かり、腫瘍細胞はそれに対する防御メカニズムを発揮し、その結果として肺組織内には様々な形態の変化が生じると示唆されます。
このような詳細な早期肺がんの解析は世界で初めて行われたものです。発がん早期に生じる遺伝子、タンパク質、組織形態の変化を詳細に明らかにすることは、将来的ながんの早期発見や有効な治療、効果的な予防につながるものと期待されます。
発表内容
肺がんの中で一番多いタイプである肺腺がんは、上皮内がんから多段階的に悪性の浸潤がんに進行していきます。早期がんについての分類である「野口分類」(注 7、図 1)において、タイプ A・タイプ B と分類される腫瘍は上皮内がんに分類され、外科的切除後の 5 年生存率は100%です。
一方、タイプ C では約 75%、タイプ D では約 50%と浸潤がんへと進展するに伴い生存率は低下していきます。これまで、このような腫瘍の悪性化がどのような分子的な変化によるものであるのか詳細には分かっていませんでした。
図 1:野口分類
昨今の技術の進歩により、長鎖 DNA シークエンス解析(図 2)によるゲノム・エピゲノム(注 8)変化の詳細な計測や、空間オミクス解析による腫瘍内の各細胞の遺伝子の発現の様子の把握が可能になりました。本研究では、早期の肺腫瘍である「野口分類」のタイプ A / B / Cと進行肺がんについて、これら最新の計測技術を駆使して、腫瘍の悪性化に伴う分子の変化を明らかにしました。
図 2:長鎖 DNA シークエンス解析
A. 長鎖 DNA シークエンス解析により検出されたゲノム構造異常野口分類タイプ B に分類される症例において検出された KIF5B 遺伝子と RET 遺伝子の融合という構造異常です。日本・米国の肺腺がんの 1-2%においてこの融合が生じ、がんを引き起こしていることが分かっています。
B. 長鎖 DNA シークエンス解析により検出された DNA メチル化率が変化した領域長鎖 DNA 配列解析に 2 コピーの染色体を分離し、それぞれについて遺伝子のプロモーター領域の DNA メチル化修飾率を算出しました。図には、野口分類タイプ C の症例について、がん細胞において、片方の染色体のみでメチル化率が変化している領域を示しています。
早期肺腫瘍(野口分類 A / B / C 型)および、その対照としての進行肺がんを筑波大学および国立がん研究センターのバイオバンクより入手し、短鎖 DNA シークエンス解析(NovaSeq 機を使用)と長鎖 DNA シークエンス解析(PromethION 機を使用)を行うことで、腫瘍細胞のゲノム DNA に生じた突然変異・メチル化修飾を染色体ごとに明らかにしました。その結果、野口分類タイプ A の上皮内がんでは、細胞増殖に関わるドライバーがん遺伝子の変異が認められたものの、その他の遺伝子群には変異が生じていませんでした。また DNA のメチル化修飾パターンも正常の細胞に近いものでした。これらの状況は野口分類タイプ C 以降の浸潤がんでは大きく変わり、がん抑制遺伝子など多くの遺伝子に複雑な変異が蓄積し、ゲノムの全領域にわたりDNA メチル化修飾パターンが変化していました。また、やや進展した上皮内がんである野口分類タイプ B の時点で、免疫に関わる遺伝子の発現が上昇していました。その詳細を単一の細胞レベルでの空間遺伝子発現解析(Xenium 機を使用、図 3)で調べたところ、腫瘍細胞が特定の領域で周囲の免疫細胞と相互作用し、遺伝子発現が変化している様子をとらえることができました。
図 3:空間遺伝子発現解析
Xenium 機を使用して 1 細胞レベルでの空間遺伝子発現解析を行いました。図には野口分類タイプ B に分類される症例の、実際の遺伝子発現パターンによるクラスター解析の結果(左)と、ある一部の領域の可視化結果(右)を示しています。
本研究により、早期の肺腫瘍が悪性化していくときの分子的な変化が明らかになりました。進行した肺がんと比べて、早期の肺腫瘍は数も少なく、検体も小さいため、ゲノム解析が難しく、これまで大規模な研究が行われてきませんでした。また本研究は最先端の計測技術を駆使して行われ、特に Xenium 機を用いたがん組織の単一細胞レベルでの空間解析は、世界で初めての試みです。今後、様々ながんの早期腫瘍を精力的に調べることで、がんの早期発見・治療・予防につながると期待されます。
「肺の多段階発がんを最初に提唱」された野口雅之先生の本研究へのコメント
1995 年に野口分類を発表した当時、タイプ A、B(上皮内がん)からタイプ C(小さいながらも進行した腺がん)へ進行する過程で何らかのゲノムの変化が起こると考えておりました。近年の治療標的であるドライバーがん遺伝子の変異はその候補と思っておりましたが、本研究でドライバーがん遺伝子変異はすでにタイプ A、B のような上皮内がんでも進行がんと同じ頻度で認められることが分かり、極めて衝撃的でした。つまり肺腺がんのドライバーがん遺伝子の変異は、腺がんの増悪過程で獲得されるのではなく、腺がんの発生そのものに関わるものであることが明らかになりました。
肺腺がんのドライバーがん遺伝子変化は進行がんに対する治療標的とされますが、実際は初期がんを含むすべての肺腺がんに対する治療標的と言っても良いのではないでしょうか。
今後、本研究で明らかになったゲノム変化の中から真に肺がんの悪性化に関わる遺伝子の変化が発見されることを期待しています。
用語解説
(注1) 長鎖 DNA シークエンス
数十キロ塩基対以上にも及ぶ長い DNA 配列を解読する手法のこと。これまでは、主に数百塩基対の DNA 配列を解読する短鎖 DNA シークエンス解析によってゲノム配列解析が行われてきました。長鎖 DNA シークエンス解析によって、がんゲノムに生じている複雑な異常を正確に検出できるようになりました。
(注2) 空間オミクス解析
組織切片の上で、遺伝子発現解析などの網羅的な分子の状態を解析する新しい手法。細胞の形や位置情報と、遺伝子発現情報を統合して解析することができます。
(注3) ドライバーがん遺伝子
直接的にがんの発生や進展に関与する遺伝子群。肺腺がんにおいては EGFR 遺伝子や KRAS 遺伝子の変異、ALK 遺伝子や RET 遺伝子の融合が生じ、分子標的治療の対象となります。
(注4) メチル化
ゲノム DNA の修飾のこと。ほとんどがシトシンとグアニンが並ぶ配列のシトシンで生じ、細胞において遺伝子発現の制御に関わっています。
(注5) コピー数変化
ゲノムの構造変化の一種であり、ゲノム領域のコピー数が変化すること。通常ヒトゲノムは父方由来のゲノムと母方由来のゲノムの 2 コピーですが、3 つ以上のコピーを持つ場合や 1 つしかコピーを持たない場合があり、これにより遺伝子の機能が通常よりも強く働きすぎたり、働きが不足したりすることで、がんの発生、進展を促すと考えられています。
(注6) 浸潤がん
がん細胞が周囲の正常な組織に広がるがん。
(注7) 野口分類
野口雅之教授らにより提唱された早期の小型肺腺がんの分類。タイプ A、B、C からなる肺胞構造を保ったまま増殖する腺がんと、タイプ D、E、F からなる肺胞構造を破壊しながら増殖する腺がんの 2 つに大別されます。本研究では、前者のタイプ A、B、C に分類された検体を解析しました。タイプ A は限局型の細気管支肺胞上皮がん(localized bronchioloalveolar carcinoma:LBAC、上皮内がん)で、タイプ B は LBAC に加え腫瘍内に線維化が生じたがん(まだ上皮内がん)、タイプ C は LBAC に限局性の線維芽細胞の増生巣(微小浸潤部)が加わったがんと分類されています。
(注8) エピゲノム
DNA のメチル化など、ゲノム DNA の配列を変化させずに、遺伝子発現など遺伝子の働きを調節するしくみの全体像。
Commentaires