記憶の運命はグリア細胞が握る マウスのグリア細胞光操作で判明
発表のポイント
1.怖い体験の記憶が残るか残らないかの運命は、その体験の 刹那せつなのグリア細胞(注1)に
ゆだねられていることを明らかにしました。
2.マウスの脳のグリア細胞の一種、アストロサイト(注2)に、光に反応するタンパク質(注3)を
発現させ、この細胞の機能を光で操作する実験を行いました。
3.床に電気ショックを流して、マウスが怖い体験(注4)をしたその直後、脳内の扁桃体(注5)に
光を照射して、アストロサイトの pH(注6)を操作しました。
4.アストロサイトを酸性化すると恐怖記憶は翌日には完全に消え、アルカリ化すると 3 週
間にわたる記憶の自然な忘却が阻害されることがわかりました。
概要
同じような経験をしても、鮮明な記憶として残る場合と、跡形もなく忘れ去る場合があります。東北大学大学院生命科学研究科の山尾 啓熙ひろき大学院生(日本学術振興会特別研究員)と松井 広こ う教授(大学院医学系研究科兼任)は、脳内アストロサイトに光に反応するタンパク質を遺伝子発現するマウスを用いて、記憶の形成過程を調べました。マウスを実験箱に入れて、床に電気ショックを流すと、マウスは痛みを感じます。翌日、同じ実験箱にマウスを入れると、通常は、前日の体験を覚えているので、マウスはすくみ反応(注7)を示します。そこで、実験初日、床に電気ショックを流した直後に光ファイバーを通して扁桃体を照射し、アストロサイトを酸性化しました。すると、その体験の数分後のマウスはすくみ反応を示しましたが、翌日のテストでは恐怖記憶をすっかり忘れていて、実験箱内を気楽に探索しました。この結果、怖い記憶が長期的に残るか残らないかは、恐怖体験の瞬間のアストロサイトの状態に依存することがわかりました。アストロサイトの細胞機能に介入することで、トラウマ(注8)の形成を回避できる可能性が示唆されました。
研究の背景
脳の最も大切な機能のひとつは学習して記憶する能力です。この能力により、過去の経験を活かし、未来を予測することが可能になります。一方、同じ事象は必ずしも繰り返すとは限らないため、必要に応じて、記憶を忘れる機能も、生きていく上では大切です。何によって記憶の運命は定められているのか、今回、その謎の一端を解き明かすことに取り組みました(図 1)。
図 1. 脳内グリア細胞の状態を光操作すると、恐怖記憶の長期的な定着が阻害されることが明らかになりました。脳内グリア細胞のうち、アストロサイトという種類の細胞に、光感受性イオンチャネル channelrhodopsin-2(ChR2)を遺伝子発現するマウスを用いて実験を行いました。マウスは電気ショックを受けると恐怖記憶が形成され、ショックを受けたのと同じような環境に来ると、恐怖の記憶が呼び起されて、身をすくませることが知られています。ところが、電気ショック直後に扁桃体アストロサイトの ChR2 を光刺激すると、マウスの長期記憶の形成は阻害されました。何らかの経験をしている時のアストロサイトの活動次第で、記憶が長期的に残るかどうかの運命が決定されていると言えます。アストロサイトの状態を人為的に操作することで、トラウマとなる可能性がある嫌な経験の記憶が長期的に定着することを防ぐことができるようになるのかもしれません。
脳のなかには、神経細胞と同じくらいの数のグリア細胞があることが知られています。このグリア細胞は、神経細胞の隙間を埋めるのり、グルーのような役割しか果たしていないとこれまで考えられてきました。しかし、グリア細胞は、細胞外液のイオン濃度や伝達物質濃度を調節したり、グリア細胞から細胞外に向かって伝達物質を放出したりすることで、神経細胞の活動に影響を与えていることが明らかになってきました。神経細胞と神経細胞の間の情報の受け渡しの場であるシナプス(注9)における信号伝達の可塑的な変化によって神経回路の動作は変わり、記憶が脳に刻まれると考えられています。神経細胞やシナプス結合部位、そして、脳内に栄養を補給する血管の両方に微細な突起を伸ばしているタイプのグリア細胞は、アストロサイトと呼ばれています。グリア細胞のうち、特に、アストロサイトの活動は、記憶の刻まれやすさ、いわゆる「記憶力」に影響を与えるのではないかと考えました。
記憶を形成させる脳内装置として海馬が有名ですが、扁桃体も、恐怖などの情動と関連した記憶の形成に重要な役割を果たすと考えられています。何らかの経験をしている最中に、海馬や扁桃体の神経回路に可塑的な変化が生じて、まずは、短期記憶が形成され、その後、この記憶を長期的に保存するために、大脳皮質に記憶痕跡(注10)が移動するという仮説が広く支持されています。長期記憶として転送される過程が効果的に働くかどうかに応じて、記憶が定着するか忘れ去られるかが分かれると考えられています。一方、長期記憶として定着するかどうかの運命は、そのイベントが起きているまさにその時に既に決まっている可能性もあります。つまり、短期記憶と長期記憶を形成するための過程は、イベントが発生した瞬間、独立したメカニズムで同時起動される可能性があるのです(記憶形成の並行仮説)(注11)。この場合、長期記憶が形成されるかどうかは、短期記憶の成立の有無とは関係がないと言えます。
今回、恐怖といった情動が関わる記憶が長期的に形成される過程に、脳内の扁桃体にあるアストロサイトの活動が関わっている可能性を検証することにしました。
今回の取り組み
東北大学 大学院生命科学研究科 超回路脳機能分野の山尾啓熙(やまお ひろき)大学院生(日本学術振興会特別研究員)と松井広(まつい こう)教授(大学院医学系研究科、兼任)は、光に反応して細胞機能を左右するタンパク質、チャネルロドプシン 2(ChR2)(注12)とアーキオロドプシン(ArchT)(注13)を、脳内アストロサイトに遺伝子発現するマウスを使って研究を進めました。ChR2 を発現する細胞に光をあてると、陽イオンを通すチャネルが開いて、細胞内に陽イオンである水素イオンが流れ込むことで、細胞内は酸性化します。一方、ArchT を発現する細胞に光をあてると、細胞の中から外に向かって水素イオンをくみ出すポンプが働くことで、細胞内はアルカリ化します。これまで、当研究室の研究では、アストロサイトの細胞機能は、細胞質の pH に応じて、様々に変化することが示されてきました。
まず、扁桃体に向けて光ファイバーを差し入れたマウスを用意して、いつも飼育しているケージとは別の実験箱にマウスを入れてみました。扁桃体に光を照射したところ、アストロサイトに ChR2 を発現するマウスでは、マウスが恐怖を感じたときに生じるすくみ反応が出ることが分かりました(図 4)。
図 4. アストロサイト細胞内の pH を操作すると恐怖をコントロールすることができました。(A) 電気ショックを受けたマウスはすくみ反応を示します。アストロサイトに ChR2 を発現させたマウスの扁桃体を光刺激するだけでもすくみ反応が生じました。扁桃体のアストロサイトの細胞内が酸性化すると、恐怖を生む脳内回路が働くことが示されました。(B) 弱い電気ショックでもすくみ反応は生じましたが、電気ショックとともに扁桃体アストロサイトの ArchT を光刺激して細胞内をアルカリ化しても、すくみ反応の程度は変わりませんでした。強い電気ショックではより強いすくみ反応が生じる傾向がありましたが、扁桃体アストロサイトの ArchT を光刺激した場合にはすくみ反応の程度が弱くなりました。扁桃体アストロサイトは、強い恐怖に対してより強い反応を促すフィルターとしての機能があり、アストロサイトをアルカリ化するとこの機能が抑制されることが示唆されました。
数分後、光照射をしたときと同じ環境にマウスを戻すと、マウスは恐怖の記憶を覚えていて、やはり、すくみ反応を示しました。ところが、翌日、再度、同じ環境にマウスを戻したときには、恐怖記憶は忘れられていて、マウスは自由にその場を探索することが分かりました。一般的に、恐怖を感じる脳内機構は、扁桃体のなかでも限られた神経回路が担っていると考えられています。扁桃体に広く分布する多数のアストロサイトをいっせいに光刺激するだけで、恐怖反応を引き起こすことができたのは驚きの発見でした。アストロサイトを酸性化することで駆動される作用は、恐怖を感じる神経回路が稼働しやすい状態へと導いているのだと考えられます。
なお、マウスのいる実験箱の床に電気ショックを与えると、マウスに軽い痛みが生じて、マウスは恐怖を感じます。いったんマウスを飼育ケージに戻し、数分後に実験箱に戻しても、恐怖の短期記憶は成立しているので、マウスはすくみ反応を示します。マウスを飼育ケージに戻して、翌日、再び実験箱にマウスを戻しても、マウスは、前日に電気ショックを受けた環境を覚えているので、再び電気ショックが来るのではないかと恐れて、すくみ反応を示します。
そこで、アストロサイトに ChR2 を発現するマウスを用いて、実験初日、実験箱にマウスを入れ、電気ショックとともに扁桃体を光照射して、アストロサイトの ChR2 を光刺激してみました。いったんマウスを飼育ケージに戻した後、数分後にマウスを再び実験箱に入れると、マウスは恐怖を感じてすくみ反応を示しました。続いて、マウスを飼育ケージに戻して 24 時間後、マウスを再び実験箱に入れてみたところ、そこが、前日に電気ショックを受けた場所であることを忘れているのか、マウスは実験箱のなかを自由に探索することが分かりました(図 2)。
図 2. 扁桃体アストロサイトの ChR2 光操作による長期記憶の選択的消去。(A)マウスは、実験箱の中を自由に探索しますが、電気ショックを受けると恐怖を感じます。いったん、飼育ケージに戻してから、翌日、同じ実験箱に入れられると、また電気ショックが来るのではないかと恐怖を感じて、実験箱内をあまり動かなくなり、時折、すくみ(freezing)反応(ピンク丸の箇所)を示します。電気ショックの直後に、光ファイバーを通して、扁桃体アストロサイトに発現させた ChR2 を光刺激しても、マウスは同じように痛みと恐怖を感じます。その証拠に、実験箱からいったん避難をしてから6分後に戻すと、強いすくみ反応を示しました。ところが、電気ショックを受けた翌日、実験箱に再び入れられると、マウスは、実験箱内を自由に探索して、すくみ反応もあまり示しませんでした。したがって、アストロサイトの ChR2 光刺激によって、マウスの長期記憶の定着が阻害されたと言えます。(B) フリージングの頻度をグラフにしました。電気ショックを受けた実験箱からいったん避難して 6 分後に実験箱に戻した場合、どちらの群のマウスもすくみ反応を示しました。電気ショックに加えて、扁桃体アストロサイトの ChR2 が光刺激された群では、翌日の記憶テストでは、恐怖の記憶がほとんど残っていないことが示されました。
したがって、扁桃体のアストロサイトの ChR2 を光照射したマウスの場合、短期記憶は成立するものの、長期記憶は成立しないことが分かりました。
興味深いことに、電気ショックを与えてから、~30 分後、扁桃体アストロサイトの ChR2 を光刺激した場合は、恐怖の長期記憶は通常通りに成立しました。したがって、アストロサイト ChR2 を光刺激したところで、記憶形成能力そのものが不可逆的に破壊されるわけではないことが分かりました。また、アストロサイトの ChR2 光刺激によって、長期記憶形成に介入できる時間的な猶予(窓)は、恐怖経験の直後だけに限られていることも示されました。これらの実験を通して、脳内には素早く成立する記憶とゆっくり形成される記憶の並行するふたつの独立した過程があり、長期記憶の運命は、恐怖体験の瞬間のアストロサイトの状態に依存することが明らかになりました。
続いて、アストロサイトに ArchT を発現するマウスを用いて実験を進めました。初日に、実験箱にマウスを入れて、電気ショックの直後に扁桃体アストロサイトの ArchT を光刺激した場合、翌日のテストでも、マウスはすくみ反応を示すことが分かりました。したがって、マウスの記憶形成において、アストロサイトをアルカリ化しても影響はないことが示されました。続いて、いつもより少し強い電気ショックで恐怖経験をさせた場合を調べてみることにしました。すると、翌日のテストで、より長い時間、マウスはすくみ反応をすることが分かりました。このように、恐怖の度合いに応じて、記憶の形成のされやすさが異なることが分かりました。興味深いことに、この強い電気ショックの条件のもと、扁桃体アストロサイトの ArchT を光刺激した場合、翌日のテストでのマウスのすくみ反応の程度は、光刺激しなかった場合に比べて低く、弱い電気ショックでのすくみ反応と同程度でした(図 3)。つまり、扁桃体アストロサイトの ArchT を光刺激すると、恐怖の度合いに応じた記憶形成がされなくなるということが分かりました。
さらに、電気ショックの実験から三週間後に再びマウスを実験箱に入れてみました。すると、時間の経過とともに恐怖記憶が薄れていくようで、すくみ反応の程度は、電気ショック翌日に比べて低くなることが示されました。一方、電気ショック直後に扁桃体アストロサイトの ArchT 光刺激をしたマウスでは、三週間後でも、電気ショック翌日と同程度のすくみ反応を示すことが分かりました(図3)。
図 3. アストロサイトの ArchT 光刺激で、3 週間にわたる自然な忘却が阻害されました。(A) これまでと同様の弱い電気ショックとともに、アストロサイトに遺伝子発現させた ArchT を光刺激しても、翌日のすくみ反応の程度は、全く変わりませんでした。弱い電気ショックだけで条件付けをした場合、3 週間後にテストすると、すくみ反応の程度は少なくなることが示されました。電気ショックの経験は 1 度きりだったため、恐怖の記憶が 3 週間もすれば、自然に徐々に忘却されると考えられます。ところが、電気ショックの直後にアストロサイトの ArchT 光刺激したマウスでは、3 週間経過しても、すくみ反応の程度は、あまり変わりませんでした。(B) 強い電気ショックを与えた場合、翌日のテストでは、すくみ反応がより多くなりました。恐怖経験の度合いが、すくみ反応の多い少ないと関連することが示されました。ところが、強い電気ショックの直後にアストロサイトの ArchT を光刺激した場合、翌日のすくみ反応の程度は、弱い電気ショックの場合と差がありませんでした。つまり、強烈な経験をより強く記憶するという記憶の選択的フィルター機構がマウスには内在していると考えられますが、アストロサイト ArchT 光刺激によって、このフィルター機能が阻害されたと考えられます。なお、強い電気ショックの場合も3週間にわたる自然な忘却が見られましたが、アストロサイト ArchT 光刺激した場合には、やはり、この忘却過程が阻害されることが示されました。(C) (D) 翌日のすくみ反応の頻度で正規化すると、3 週間にわたる忘却過程がよりはっきりと示されます。弱い電気ショックでも強い電気ショックでも、アストロサイト ArchT 光刺激で、自然な忘却過程が阻害されることが示されました。(E) 電気ショックの直後にアストロサイト ArchT を光刺激すると、翌日に現れる記憶のフィルタリング機構は阻害され、3 週間後まで残される遠隔記憶の保持が向上するとともに、自然な忘却過程が阻害されることが明らかになりました。注目すべきは、アストロサイトの活動の光操作は、電気ショックの直後にしか行っていないにも関わらず、3 週間後にまで及ぶ遠隔記憶の程度が影響された点です。つまり、記憶が長期的、超長期的に残るかどうかの運命は、恐怖経験の瞬間に、既に決定されていることが示唆されました。
したがって、扁桃体アストロサイトの ArchT を光刺激すると、恐怖記憶をゆっくりと消去するメカニズムが阻害されることが明らかになりました。驚きだったのは、実際に、扁桃体アストロサイトの ArchT を光刺激したのは、電気ショックを与えた直後の一度きりだったにもかからず、その効果が現れるのは三週間もあとの遠隔記憶だったことでした。したがって、電気ショック直後の限られた時間窓のなかでのアストロサイトの状態次第で、恐怖記憶が、その後、超長期的にどのように残るのか、その運命はすでに決定されていることが明らかになりました。
今後の展開
本研究では、恐怖を感じる電気ショックを与えた直後の限られた時間窓のなかで、扁桃体のアストロサイトの細胞機能を光操作すると、恐怖記憶の翌日にわたる長期記憶や、三週間後まで残る遠隔記憶の成立が影響されることが示されました。短期記憶と長期・遠隔記憶が形成される過程は、恐怖体験の瞬間にどちらも起動され、独立した並行した経緯をたどることが示唆されました。つまり、恐怖体験の瞬間のアストロサイトの状態次第で、記憶の運命はすでに決まっていることが明らかになりました。
本研究では、扁桃体のアストロサイトを酸性化すれば、恐怖記憶を完全に消去できることが示されました。例えば、アストロサイトに発現するグルタミン酸トランスポーター(注14)を特異的に活性化する薬物が開発されれば、アストロサイトの細胞内を人為的に酸性化することが可能になるかもしれません。強い恐怖を覚えることが見込まれる救急救命の場等に派遣されるときに、アストロサイトを酸性化しておけば、恐怖体験がトラウマ(心的外傷)として記憶される可能性を軽減できることが期待されます。アストロサイトを人為的にアルカリ化することができれば、いったん記憶した事柄を忘却することなく、超長期的に保持することが可能になるのかもしれません。しかし、逆に言えば、不要な記憶を忘却することも容易ではなくなるため、記憶の取捨選択と整理が困難になる可能性もあります。
このように、脳の機能を支えるメカニズムは超複雑系と言えるので、本研究成果の直接の臨床応用には時間がかかると考えられます。しかし、本研究を通して、記憶の並行形成過程が明らかになり、グリア細胞機能の光操作を介して、複数の記憶過程を切り分けて調べることが可能になりました。この研究をさらに進めることで、心に残る記憶と忘れ去られる記憶など、私たちの脳内で、どのように記憶を処理しているのか、そのメカニズムの一端が明らかにされることが期待されます。
用語説明
注 1. グリア細胞:
脳実質を構成する神経細胞以外の細胞は、総称して、グリア細胞と呼ばれていて、脳内には神経細胞に匹敵する数のグリア細胞があります。グリア細胞は、大きく分けて、アストロサイト、ミクログリア、オリゴデンドロサイトに分類されています。脳内での情報処理は、膨大な数の神経細胞同士が織り成すネットワークによって実行されていると考えられています。一方、グリア細胞は、神経組織を構造的に支え、神経細胞に栄養因子を受け渡すためだけの細胞群であると長らく考えられてきました。しかし、近年、グリア細胞からの作用を通して、神経回路の動作は種々な影響を受けていることが報告されています。
注 2. アストロサイト:
アストロサイトは、グリア細胞の中で一番多く存在し、脳内の血管と神経細胞間のシナプスの双方に突起を伸ばすことから、特に神経情報処理との関連が深いことが推測されています。このアストロサイトは、周囲の神経細胞の活動に反応し、何らかの伝達物質を放出したり、イオン濃度調節機能を発揮したりすることで、神経回路の動作に影響を与えます。しかし、アストロサイトは、単に、神経活動に対して受動的に反応するだけではなく、むしろ、アストロサイトからの能動的な働きかけが原因となって、神経細胞の働きが制御されている可能性が指摘されています。
注 3. 光に反応するタンパク質:
光に応じて細胞の状態や機能を変化させるタンパク質を、特定の細胞に遺伝子発現させることにより、光照射で細胞の活動を制御する技術のことを光操作法と呼びます。また、この技術は、光遺伝学またはオプトジェネティクスとも呼ばれます。開発当初より、この技術は、もっぱら、特定の種類の神経細胞を人為的に機能操作する手段とされてきました。一方、当研究室では、グリア細胞にオプトジェネティクス技術を適用する研究を行ってきました。しかし、オプトジェネティクスを利用すると、生来のグリア細胞では起こりえない変化が引き起こされる可能性があることで批判されることがあります。しかし、当研究室では、グリア細胞の機能を瞬時に変化させる手段としてこの技術を活用しており、脳という複雑系に生まれる摂動の効果を観察することで、生来の脳内機構を解き明かすことに挑戦しています。
注 4. 恐怖体験:
電気ショックを受けるとマウスには強い恐怖心が生まれると考えられ、電気ショックを受けた環境(実験箱の形状や周囲の様子等)をマウスは良く記憶します。再び、同じ環境に連れてこられると、また電気ショックが来るのではないかと怯えて、すくみ反応を示します。すくみ反応の程度を観察することで、記憶の定着の程度を定量的に計測することができるため、恐怖条件付け実験は、マウスの記憶を測定する手段として良く使われています。
注 5. 扁桃体:
ヒトを含む高等脊椎動物の側頭葉内側の奥に存在する、アーモンド(扁桃)形の神経細胞の集まりのことであり、大脳辺縁系の一部であると考えられています。扁桃体は、情動反応の処理と記憶において主要な役割を果たすことが示されています。
注 6. 細胞質の pH:
溶液内に含まれる水素イオン(H+)の濃度の指標を pH(水素イオン指数)と言います。pH の数値が低いと、水素イオン濃度が高いことを指し、この状態を酸性と呼びます。一方、pH の数値が高いことをアルカリと呼びます。グリア細胞の細胞質の pH は、様々な細胞機能に影響を与えることを、これまで、当研究室では示してきました。すべてのグリア細胞で同じ反応があるとは限らないのですが、小脳のグリア細胞の酸性化が引き金となって、グリア細胞からグルタミン酸等の伝達物質が放出されることは示されています(Beppu et al., JPhysiol 2021)。また、海馬のグリア細胞のアルカリ化が起きると、グリア細胞間のギャップ結合が閉塞し、細胞外の K+イオン除去の効率が下がることが示されました(Onodera et al., J Neurosci 2021)。
注 7. すくみ反応:
マウスは恐怖を感じると、その場にうずくまって、ほとんど動かなくなる反応を示すことが知られています。このような行動のことをすくみ反応、もしくは、英語でフリージング(凍る)行動と呼ばれています。
注 8. トラウマ:
トラウマ(trauma)とは、心の傷を意味し、自然災害や戦争、犯罪、事故などの体験の記憶が心に刻まれることを指します。一般的に、個人が一般の生活では経験しないような心理的に強い負荷となる出来事を指します。そのようなトラウマ体験から自然に回復する人もいますが、トラウマの記憶から精神障害となることがあり、そのことを PTSD(心的外傷後ストレス障害)と呼びます。
注 9. シナプス:
神経細胞と神経細胞は、シナプス結合部位という箇所を使って、信号の受け渡しをしています。信号を送るほうの細胞(シナプス前細胞)から伸びる軸索は、信号を受け取る側の細胞(シナプス後細胞)の樹状突起に接触します。シナプス前細胞が興奮すると、軸索末端のシナプス前部構造の細胞質内のシナプス小胞に含まれる伝達物質が、細胞外に向かって開口放出されることで、伝達物質が細胞外液中を拡散します。シナプス後部構造には、伝達物質によって活性化される受容体があり、この受容体に放出された伝達物質が結合することで、シナプス後細胞に信号が伝わります。このような信号のやり取りの効率は、シナプス前細胞や後細胞の状態に応じて、可塑的に変化します。シナプス伝達の可塑性を通して、神経回路上の信号の流れが変わり、記憶が脳に刻まれると考えられています。
注 10.記憶痕跡:
英語ではエングラム (engram) とも呼び、記憶に対して脳の中で形成される生物学的な構造のことを指します。シナプスでの情報伝達の効率の変化がもととなり、脳神経回路のなかで集団活動する神経細胞の組み合わせに、記憶が刻まれると考えられています。
注 11.記憶形成の並行仮説:
これまでの脳科学研究では、まず、短期記憶が形成され、その内容が長期記憶として定着するという直列的(シリアル)な過程を経て、記憶が形作られると考えられてきました。一方、短期記憶と長期記憶の違いは、単に記憶が発現するまでの時間が異なるだけであり、どちらの記憶の形成過程も、同時に並列的(パラレル)にスタートしている可能性も考えられます。当研究室からの研究成果で、小脳に依存した運動学習過程では、まさに、並行記憶過程が起きることを示した論文が出ています(Kanaya et al., Glia 2023)。
注 12. チャネルロドプシン2(ChR2):
クラミドモナスという藻に発現する光感受性の膜タンパク質。ChR2 遺伝子を、マウスの脳の特定の細胞で発現するように組み込むと、その細胞で ChR2 が発現されます。光ファイバーなどを使って、生きているマウスの脳を局所的に光照射すると、ChR2 を発現する細胞だけが刺激されて興奮します。当初、ChR2 は光感受性の非選択的陽イオンチャネルと捉えられてきましたが、このChR2 は水素イオン(H+)を良く通すため、当研究室では、細胞内を人為的に酸性化するツールとして使っています。
注 13 アーキオロドプシン(ArchT):
本研究では、古細菌に発現する光感受性のアーキロドプシンタンパク質(ArchT)を、アストロサイトに特異的に発現させた遺伝子改変マウスを用いました。ArchT は、光により活性化すると、細胞内から細胞外に H+イオンを排出するため、細胞内は、過分極するとともにアルカリ化します。
注 14. グルタミン酸トランスポーター:
細胞外に放出された神経伝達物質のグルタミン酸を回収して、細胞外のグルタミン酸濃度を下げる役割のある膜タンパク質であり、グリア細胞に多く発現していることが知られています。グルタミン酸トランスポーターがグルタミン酸分子をひとつ細胞外から細胞内に取り込むごとに、細胞外の水素イオンもひとつ取り込むことが知られています。したがって、グルタミン酸トランスポーターが活性化されると、細胞内の水素イオン濃度が高くなり、細胞質は酸性化すると考えられます。
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