未在 -Clinics that live in science.- では「生きるを科学する診療所」として、「健康でいること」をテーマに診療活動を行っています。
根本治癒にあたっては、病理であったり、真の原因部位(体性機能障害[SD])の特定(検査)が重要なキー(鍵)であると考えています。
このような観点から、健康を阻害するメカニズムを日々勉強しています。
人の「健康」の仕組みは、巧で、非常に複雑で、科学が発達した現代医学においても未知な世界にあります。
以下に、最新の科学知見をご紹介します。
ストレスによる精神症状の個体差は記憶に由来する
―記憶が精神疾患を誘発するメカニズムを解明―
研究背景
動物は、他の動物に攻撃されるような精神的なストレス負荷を受けると、不安やうつ症状などの精神破綻が生じます。このようなストレス誘発性の精神症状において、ヒトとマウスで共通しているのは、大きな個体差がある点です。
つまり、同じように精神的なストレス負荷を受けても、精神症状を発症しやすい個体(ストレス感受性)とそうでない個体(ストレス抵抗性)に分かれます。しかし、このようなストレス応答の個体差を説明する脳のメカニズムは未解明でした。
このような個体差を説明する脳のメカニズムの候補として「記憶」に着目しました。記憶は、様々な物事を覚えるために重要な脳の機能ですが、記憶の中には、ストレスを感じるような嫌な物事も多く存在します。研究グループは、このような嫌なストレス記憶が脳の中で強化され過ぎることが、精神症状発症の一因になるのではないかと仮説を立てました。
記憶を司る主要な脳領域の1つに海馬があります。特に腹側に存在する海馬(腹側海馬)は、ストレス負荷などにより情動反応が誘発されると強く活性化されることが知られています。
そこで本研究では、記憶と情動の両方に重要である腹側海馬に焦点を当てて、腹側海馬に形成されたストレス記憶が、精神症状の発症にどのように寄与するか調べました。
研究の概要
実験動物モデルとしてマウスを用いました。マウスはヒトと同様に、他の個体から攻撃されるようなストレス刺激(社会的敗北ストレス)を受けると、うつ病様の症状を呈します(図1)。
本研究では、まず腹側海馬の遺伝子発現を詳しく調べるために、ストレスを負荷する前のマウスから、腹側海馬の微量組織を採取し、遺伝子発現解析を行いました。すると、カルビンジンという遺伝子を強く発現していたマウスは、後に社会的敗北ストレスを負荷されると、うつ様の症状(感受性)を呈しやすいことがわかりました。逆に、腹側海馬のカルビンジン遺伝子を人為的に欠損させたマウスは、ストレスに対して症状を発症しにくくなる(抵抗性)ことがわかりました。
さらに詳細な神経メカニズムを調べるために、こうしたマウスの腹側海馬に金属電極を埋め込み、電気シグナルである脳波を計測しました。すると、ストレス感受性が高いマウスは、ストレスを負荷した後に、腹側海馬にて「リップル波」と呼ばれる特徴的な脳波が多く観察されました(図2)。逆に、カルビンジン遺伝子を欠損させたマウスや、ストレス抵抗性が高いマウスでは、そのような脳波の変化は観察されませんでした。リップル波は、多くの神経細胞が同時に活動する際に生じる脳波であり、神経細胞が経験した記憶を強化する(記憶の固定化)ために重要であることが知られています。つまり、ストレス記憶をより強化するような腹側海馬のリップル波が生じると、その後のストレス誘発性の精神症状が発現しやすくなる可能性が示唆されます。
この可能性をより詳細に検証するために、リップル波を直接かつ即時的に操作する実験技術の開発を行いました。ここでは、マウスから生じる脳波を常に計算処理して、リップル波が検出された直後に、電気的なフィードバック刺激を脳に与え、リップル波のみを消失させるという実験システムを確立しました(図3左)。この技術を用いて、ストレスを負荷したマウスにおいて、腹側海馬のリップル波を選択的に消去したところ、その後のうつ様症状の発症が抑制されました(図5)。これは、腹側海馬で強化されつつあるストレス記憶を、選択的に抑制できた結果だと考えられます。
最後に、このような人為的な脳波の操作ではなく、より自然環境での効果を試しました。リップル波は、安静時に頻繁に生じる脳波ですが、運動をしている時には、ほとんど発生しないことが知られています。そこで、ストレスを負荷したマウスを、強制的にウォーキングマシンに乗せて運動させたところ、腹側海馬のリップル波はほとんど観察されなくなり(図4)、その後のうつ様症状の発症も抑制されました(図5)。
以上の結果より、腹側海馬のストレス記憶に関与するリップル波が、その後のうつ様症状の発症に重要であり、こうした現象を予防するためには、運動が効果的であることが示唆されました。
図1 社会的敗北ストレスの一例の写真。
図2 ストレス負荷後の腹側海馬リップルの頻度を横軸、社会相互作用の量を縦軸にプロット
すると、有意な負の相関が観察される。
図3 海馬リップルの発生を検出し、瞬時のフィードバック刺激で、これを消失させる。
図4 ウォーキングマシンによる運動では、リップル頻度が有意に低下する。*P < 0.05。
図5 フィードバック刺激や運動では、通常のストレスのみの場合と比べて、社会相互作用の
量が有意に増加する。*P < 0.05。
本研究成果の概要
本研究成果は、ストレス応答性の精神症状を記憶能力や性格傾向の側面から考える重要な契機となります。また、運動が精神衛生上の良い効果をもたらす理由を説明できる研究成果であり、さらに検証を重ねることで、現代社会の精神衛生の向上への寄与も期待されます。
概要図
(左)黒いマウスが白いマウスからストレス攻撃を受ける。ストレスを受けた海馬の細胞が活性化され、記憶として蓄えられる。
(中)その後の休憩中でも、黒いマウスの海馬では同じ細胞が継続して再活性化し、記憶が固定される。この際、リップル(脳波)が発生する。
(右)この活動が繰り返されると、ストレス誘発性の精神症状が生じる(上段)。
一方で、運動などにより、記憶の固定を抑制できれば、発症が予防される(下段)。
社会的意義と今後の展望
本研究はマウスから観察された結果ですが、海馬の構造やリップル波の機能はマウスとヒトで非常に類似しているため、記憶を基にした精神症状の発症メカニズムは、ヒトでも同様である可能性が考えられます。
多くの研究から、うつ病の様々な発症メカニズムが提唱されていますが、これまでは記憶との関連はほとんど注目されてきませんでした。このような研究背景の中で、本研究成果は、本来脳に備わっている記憶のメカニズムが過剰に働くと、精神症状を発症するリスクが高まることを示しました。この成果は記憶能力や性格傾向の側面から、ストレス応答性の精神症状を考える重要な契機となります。
また本研究では、運動をすることによって海馬のリップル波の頻度が減少し(すなわち、記憶の固定化の機会を減らし)、ストレス誘発性の精神症状を抑制できる可能性を示しました。これは、ストレス環境においては、気晴らしのような状態に相当し、精神衛生上のプラスの効果であると考えられます。
今後はヒトにおいても、運動をはじめとしたどのような行動が、最も気晴らし効果を高めるか検証を進めることで、現代のストレス社会に生きる人々の well-being の向上に寄与できると期待されます。
研究グループ
東北大学大学院薬学研究科の佐々木拓哉教授と佐々木(久我)奈穂子研究員、東京大学大学院薬学系研究科の池谷裕二教授ら。
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